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2017年9月[Sanada発 現場から]


真田幸光のポルトガル訪問記


 例年夏、企業経営者の方々とご一緒に世界各地を視察するツアーを致しておりますが、今年はポルトガルに行ってきました。
世界を大きく変えた大航海時代の草分けとなった国、第二次大戦時、混乱のヨーロッパ戦線にあって、相対的には被害が少なく、古き良きヨーロッパの雰囲気が残っている国、しかし、かつては世界の先進国であったにも拘らず、今は、
「ヨーロッパの大いなる田舎」
などとも言われる国、ポルトガルを縦断して参りました。

ご高承の通り、ポルトガル共和国、通称ポルトガルは、西ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家であります。
北と東にスペインと国境を接し、その国境線の総延長は1,214kmに及び、西と南は大西洋に面しています。
また、大航海時代の名残から、ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有しており、首都はリスボンであります。

ポルトガルは、ヨーロッパで最も早くに絶対主義を確立した国であり、そのアヴィス朝時代には、大西洋に面し、海洋国家としての性格をも生かし、ポルトガルは海外進出を積極的に進めました。
そして、1415年にポルトガルはモロッコ北端の要衝セウタを攻略しましたが、この事件は大航海時代の始まりのきっかけとなり、以後、エンリケ航海王子(1394年−1460年)を中心として海外進出が本格化したのであります。
ポルトガルの探検家はモロッコや西アフリカの沿岸部を攻略しながらアフリカ大陸を西回りに南下し、1482年にはコンゴ王国に到達、1488年にはバルトロメウ・ディアスがアフリカ大陸南端の喜望峰を回り込み、大航海時代は大きく発展していったのでありました。

こうしたポルトガルは、第二次世界大戦後の混乱を経て、1974年4月25日未明、国軍の実戦部隊が当時の政府に対して突如反旗を翻し、反乱軍に加わった民衆はヨーロッパ史上最長の独裁体制となっていたエスタド・ノヴォ体制を打倒しましたが、これが有名な無血革命となるカーネーション革命であります。
この革命後共産党と社会党をはじめとする全ての政党が合法化され、秘密警察が廃止されるなど民主化が進みましたが、新たに大統領となったアントニオ・デ・スピノラ将軍は革命を抑制する方針を採ったために各政党の反対にあって9月30日に辞任し、首相のヴァスコ・ゴンサウヴェス、共産党書記長のアルヴァロ・クニャル、最左派のオテロ・デ・カルヴァーリョと結んだコスタ・ゴメス将軍が大統領に就任し、革命評議会体制が確立されました。
革命評議会体制の下で急進的な農地改革や大企業の国有化が実現されましたが、1975年の議会選挙で社会党が第一党になったことを契機に社会党と共産党の対立が深まり、1975年11月までに共産党系の軍人が失脚したことを以て革命は穏健路線に向かいました。
この間海外植民地では既に1973年に独立を宣言していたギネー・ビサウをはじめ、アフリカ大陸南部の2大植民地アンゴラとモザンビーク、大西洋上のカーボ・ヴェルデとサントメ・プリンシペなど5ヶ国の独立を承認しました。
一方、ポルトガル領ティモールでは、ティモールの主権を巡って独立勢力間の内戦が勃発し、内戦の末に東ティモール独立革命戦線が全土を掌握しましたが、12月にインドネシアが東ティモールに侵攻し、同地を実質的に併合、こうしてポルトガルは1975年中にマカオ以外の植民地を全面的に喪失、そのマカオもまた今や中華人民共和国に返還されており、大航海時代に獲得したポルトガルの多くの海外権益は無くなりました。

その後、1990年代に入り経済が失速したことを受けて1995年の議会選挙では社会党が第一党となり、アントニオ・グテーレスが首相に就任、さらに、翌1996年の大統領選挙でも社会党のジョルジェ・サンパイオが勝利し、1980年代から続いたコアビタシオンは崩壊、社会党政権の下では1998年のリスボン万国博覧会に伴う経済ブームや民営化政策の進展により1995年から2000年までに年平均3.5%と高度な経済成長を達成し、同時に社会民主党政権が放置していた貧困問題にも一定の対策が立てられ、ヨーロッパ連合(EU)の始動に伴って1999年に欧州統一通貨ユーロが導入されています。
しかし、2000年代に入って経済が停滞すると、2002年の議会選挙では右派の社会民主党が第一党となり、ドゥラン・バローゾが首相に就任、この時期の旧植民地との関係では1996年にポルトガル語諸国共同体(CPLP)が設立され、革命以来冷却化していた旧植民地とポルトガルの関係が発展的な形で再び拡大し、ポルトガル経済の一つの支えとなる可能性が出てきているのであります。

ここで、日本の外務省のデータによるポルトガルの経済概況を確認しておきます。
以下の通りです

  1. 主要産業

製造業(機械類,衣類,コルク製造)及び観光業等

2.GDP
約1,705億ユーロ(2015年)(IMF)

3.一人当たりGDP
16,384ユーロ(2015年)(IMF)

4.経済成長率
2012年−4.0%
2013年−1.1%
2014年 0.9%
2015年1.5%
(ポルトガル国立統計院)

5.物価上昇率
2012年2.8%
2013年0.3%
2014年0.3%
2015年0.5%
(ポルトガル国立統計院)

6.失業率
2012年15.5%
2013年16.2%
2014年13.9%
2015年12.4%
(ポルトガル国立統計院)

7.総貿易額(ポルトガル国立統計院,2015年)
(1)輸出:498億ユーロ
(2)輸入:601億ユーロ

8.主要貿易品目(2015年,ポルトガル投資貿易振興庁)
(1)輸出:機械及び機器、車両及び他輸送用機材、石油製品、非鉄金属、プラスチック及びゴム、農産物、衣類等
(2)輸入:機械及び機器、石油製品、車両及び他輸送用機材、化学製品、農産物、非鉄金属、プラスチック及びゴム等

9.主要貿易相手国(2015年,ポルトガル投資貿易振興庁)
(1)輸出:西、仏、独、英、米、アンゴラ(対EU 72.7%)
(2)輸入:西、独、仏、伊、蘭、英(対EU 76.4%)

10.通貨
ユーロ

こうした実績を持つポルトガルの経済は、今はEU依存型経済と言え、貿易・投資ともにEUとの結びつきが強い(例えば、輸出入の約7割,対ポルトガル直接投資の約8割をEU域内国が占めている)です。
現在、市場拡大の為、ブラジル、アンゴラ等のポルトガル語圏諸国(CPLP)、北米、中南米、アジア等との経済交流拡大を図っており、今後には期待が持たれています。
そうした意味では、歴史的には関係の深い日本に対する関心も高いと言えましょう。
一方、EU依存度が高いが故、その影響は良きにつけ悪しきにつけ受け易く、2007年頃からのEU域内における景気後退の中、2009年秋からのギリシャ財政危機を契機に,ポルトガルは大幅な財政赤字国として、国際金融界からは注視されています。
特に、2010年には長期国債の利回りが持続不可能な水準(即ち、7%超)まで上昇し、財政破綻を回避すべく,2011年5月,ポルトガル政府は欧州委員会,欧州中央銀行,国際通貨基金と財政健全化プログラム(トロイカ合意)に合意し、3年間で総額780億ユーロの融資を受けることになりましたが、高失業率の改善は見られていません。
また、2015年10月の総選挙を経て発足したアントニオ・コスタ首相率いる社会党政権(少数与党)は,低所得層の生活支援を重視する急進左派のポルトガル共産党,左翼連合,緑の党等からの閣外協力を踏まえ,前連立政権が推進した緊縮策や構造改革を一部撤回する政策を掲げており、2016年3月16日に左派各党の賛成多数で国会成立した2016年度政府予算案では政府は、欧州委員会との事前協議を踏まえ,同年度の経済成長率を1.8%、対GDP比財政赤字を2.2%に目標設定した上で、個人所得税の追加特別税の引き下げや、付加価値税の軽減税率適応品目の拡充、公務員給与削減措置の段階的撤廃などの反緊縮策を盛り込む一方、自動車取得及び自動車燃料、タバコ、印紙、アルコール飲料等の各種間接税を引き上げることで財源を補う計画を示していますが、依然として同予算がEUの財務基準(対GDP比財政赤字3%以下)から逸脱する可能性や、競争力向上に向けた構造改革の遅れに対する懸念が欧州委員会や大手格付会社等から示されています。
こうした中、訪問したポルトガルは以下のような状況でありました。

さて、私たち一行は、羽田から、関空にて全国からいらしたメンバーと合流し、UAEのデュバイ経由、リスボン、そして、ポルトへと入りました。
羽田から数えるとポルトまでは、トランジットの時間が長かったこともあり、実に30時間ほど掛かり、太り気味で腰の悪い私にとっては厳しい移動となりました。
途中、10年前にこの例年実施している海外ツアーで10日間の調査をしたデュバイの空港に入りましたが、私にとっては、
「中東情勢は改善していない。」
と感じられました。
もちろん、デュバイそのものに大きな際立った不安が顕在化しているわけではありません。
しかし、メッカを抱えるサウジアラビア、ペルシャ帝国の歴史を持つイラン、そして、通商の要衝として栄え、トルコ帝国の歴史も持つトルコの、
「イスラム世界での盟主争い」
は歴史を持つ調整国・エジプトのアラブの春による衰退以降、水面下では激しく進行しています。
そして、そのイスラム世界での問題に対して、イスラエルとの関係もあり、ちょっかいを出す米国の動きもあり、事態は複雑化していそうです。
その米国とサウジアラビアの同盟関係は、もうかなり前から、共通の価値観ではなく、冷ややかな視点によって動いているとの見方があり、私もそうした見方をしています。
そして、そのサウジアラビアは、最近になり、イラクのシーア派に接近し、イラク政府への影響力を強化することを通じ、イラクでのイランの影響力を減殺しようとしているとも見られます。
このことは、例えば、シーア派であるイラクの聖職者が、スン二派の盟主サウジアラビアを訪問していることなどでも注目され、このような動きは、ここ11年なかったこととして、驚きを持って受け止められています。
サウジアラビアは、イスラム世界での盟主争いのライバル・イランに対し一貫して、”反シーア派”の立場を取り、これに対してイランは、シーア派の保護者としてシーア派の諸国に影響力を及ぼしていますが、このパワーバランスに影響が出るかもしれまん。
一方米国は、これまでISとの戦いにおいて、イラク政府を支援して来ましたが、米国は、同じくISと戦うイラン政府軍をイラクの戦場に入れてはおらず、また、サウジアラビアとも今は少し距離を置いているとも見られます。
他方、上述したイラクの聖職者は、サウジ王朝ならびに米国政府と協調関係にあるアラブ首長国連邦を訪問しています。
こうした、イラク政府によるスンニ派諸国への接近は、スン二派とシーア派の間の緊張関係の緩和にとってプラス材料となるのか、注目されています。
こうしたイラクの動きは、スンニ派に対しても、
「イラクの独立支援」
を期待したものとの見方もありますが、少しでも安定に向かった動きとなることを期待したいものであります。
ところで、皆様、ご存知のように、サウジアラビア、エジプト、バハレーン、アラブ首長国連邦は、
「カタール政府はテロを支援している。またイランにも接近している。」
と批判し、この6月以降、カタールとの国交を断絶、大規模なブロックを実施しています。
これに対して、小国であるカタールは、米軍の中東で最大の軍事基地が置かれていることなどを背景に、サウジアラビアなどのこうした脅迫に屈服しておらず、実際に、カタールに必要な生活必需品は、トルコやイランから多く運ばれて来ているようです。
サウジアラビアなどのカタール制裁により、確かにカタールの経済成長は鈍化していると見られていますが、カタールは今もなお2.5%の経済成長を維持しており、これはサウジアラビアの経済成長率0.5%より高く、皮肉が見られています。

こうしたことを意識しながら、リスボン、そして、国内線に乗り換えて、ポルトに入りました。
ホテルは、イタリアのデザイナーが設計をしたポルトパレシオと言う市内の落ち着いたホテル、ここに入り、陣を構えました。
ポルトは、大航海時代の草分け、エンリケ航海王子を生んだ街で、現在、市内人口は30万人、都市圏人口は160万人を越える街です。
港町ではありますが、周辺には大航海時代の船舶建造の背景となった木材産業基地、ポルトワインの原材料となるのぶどう畑も見られます。
また、畜産も見られますが、大航海時代には、例えば、高級な肉の部位は船員達用に船に積み込まれ、大航海時代を支えたポルトの街の人々は、ホルモン肉を多く食べていたようで、今はこれが幸いし、ポルトの名物料理の一つにこの、
「ホルモン料理」
が挙げられるようになっています。
このようなポルト、ポルトは落ち着いた大いなるヨーロッパの田舎街の雰囲気一杯であります。
尚、ナポレオンのポルト侵攻を撃破したと言う歴史を持つ街であることも忘れてはなりませんね。
また、ポルトのみならず、ポルトガルの電力事情を見ると、水力と火力発電、そして補助電力としての太陽光発電、風力発電が中心となっています。

到着の翌日は日曜日、お仕事はなく、皆さんとポルトからほぼ北へ向かって約250キロメートル離れたスペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)に行くこととしました。
スペインまではポルト市内から高速道路が建設されており、また、EU加盟国圏内でありますから、基本的には、通行自由の関係にあり、スムーズに、約3時間でサンティアゴに向かうことが出来ました。
そのサンティアゴ・デ・コンポステーラは、スペイン北西端部ガリシア州のア・コルーニャ県の都市で、ガリシア州の州都であります。
コマルカ・デ・サンティアーゴに属し、ガリシア州統計局によると、2012年の人口は95,671人と、州内ではビーゴ、ア・コルーニャ、オウレンセ、ルーゴに次ぐ5番目の人口規模の街であります。
そして、ガリシア州の政治の中心であると同時に、宗教的には大司教座が置かれていることが、特に有名で、私たちは、その大司教が行った日曜ミサに約1時間参列しました。
旧市街は1985年にUNESCO世界遺産に登録されており、また、エルサレム、バチカンと並ぶキリスト教三大巡礼地の一つとしても有名であり、世界遺産に登録されているサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の終着地でもあります。
この地はキリストの直弟子、十二使徒の一人であるヤコブ=スペイン語名がサンティアゴ=の墓が見つかり、ヤコブの遺骨が眠る地として三大巡礼地に入っていますが、今回の日曜ミサにも多くの人が参列し、大司教の、
「悔い改めよ。」
の教えを聞きつつ、また、世界各地から集まった司教の各国語での挨拶も聞きながら(残念ながら、日本の司教は来ておらず、アジアでは韓国の司教の韓国語での挨拶を聞きました。)、最後には、大司教の掛け声の下、人々は周囲の人と皆、握手をし、また、中には抱擁をしながら、平和を祈り合い、更に、司教からキリストの身体に聖変化したと言われるパンを頂きました。
私も周囲の多くの方々と握手、そして、司教から直接、パンを食べさせて頂きました。
こうして、私たちはその巡礼の道の本の最後の一部を歩き、スペインのレコンキスタと関係し、キリスト教国の守護聖人となったヤコブのイメージを示す「ムーア人殺しのヤコブ」の絵などがある博物館を見学、旧市街の散策とレストランでの食事をし、再び、ポルトに戻りました。
尚、この日は、当初は年に10回ほどしか行われない「香を炊き、その香を戴く宗教儀式」である、即ち、カテドラルに吊り下げられた「ボタフメイロ」と言われる巨大振り香炉によって参列者が香を戴く儀式にも参列する予定でしたが、先日のバルセロナで発生したテロ事件の犠牲者を悼み、また、テロを警戒して、その儀式は行われませんでした。
こうして、再びポルトに戻りました我々は、ポルトの視察に入りました。

ポルトは西欧の大いなる田舎、ポルトガルにあつて、更に歴史的な遺産の残る、古き良き西欧の佇まいを残す街です。
ポルトガル第二の都市でもあります。
ポルトは前述した14世紀から15世紀にかけての大航海時代の草分けの時期に発展した都市で、ポルトの背後にある木材を使って建造された船を元に、ポルトで組成された船団が、ポルトガル海軍の発展に大いなる貢献をしました。
そして、1415年に、ジョアン1世の子供であるエンリケ航海王子が登場、このポルトを出発し、モロッコの地中海に面する港町セウタを攻撃、エンリケ航海王子によるセウタ攻略がそれ以後のポルトガルの海外展開の拠点となり、これに続いてその後、スペインやオランダも海洋進出を始め、大航海時代が進んでいくことになりました。
また、18世紀から19世紀にかけて、ポルト港から特産ワインがイングランドに盛んに輸出され、英語でポートワイン(ポルト・ワイン)と呼ばれて有名になったことでも有名です。
但し、実はポルトの街自体にはぶどう畑はなく、周辺で栽培されたぶどうをポルトの隣町にあるワイナリーで醸造、それをポルトから輸出したということで「ポートワイン」と成りました。
日本でもかつては「赤玉ポートワイン」が流行りましたが、このポルトのポートワインに起源があります。
また、ポルトからバスで1時間ほど離れた「大学の街」、また、ヨハネパウロ二世が訪問したこともあるブラガの街の郊外にあるボンジェズス教会に向かいました。
この教会は、バチカンから、高い格式を与えられた教会で、この教会と共に、ブラガの街は13世紀頃から栄え始めたと聞きました。
ゆっくりとボンジェズス教会を見学した後、私たちは、ブラガから南西に下ったギマランイスへ向かいました。
ここは、初代ポルトガル国王誕生の地として有名であり、ギラマンイス城を訪問、眺めました。
ギマランイス城は、1100年代に、イスラム系ムーア人を追い出したポルトガル国王の城であり、初代国王がムーア人を追い出すと、二代国王は、初代国王に対して、
「Father, you were a knight,
today visil is ours.」
即ち、
「初代国王である父よ、あなたはムーア人を追い出した勇敢な戦士であった。
しかし、これからは、私たちが寝ずの番をして、この国を守る!!」
と言い、ポルトガル建国の王の意思を継いだことが記されている城でもあります。
アフリカ北部と近く、ジブラルタル海峡に近いイベリア半島のあるポルトガルとスペインには、キリスト教とイスラム教の両方の影響を強く受けた歴史があることが、こうした歴史からも改めて分かります。
そして、再び、ギマランイスを発ち、我々はポルト市内に戻り、歴史地区のボルサ宮、サンフランシスコ教会なども見学しました。
ボルサ宮は、ポルトの旧市街にある新古典様式の建物です。
ポルトガル初の鉄筋建造物の一つとして19世紀に建てられており、市の商業組合、裁判所、証券取引所として使われていました。
当時の経済力を背景とした建物としても注目されます。
現在は商工会議所の事務所になっています。
中は、スペインのグラナダにあるアルハンブラ宮殿を模した「アラブの間」があり、これが有名です。
1996年、ポルト大聖堂、クレリゴス教会、サンフランシスコ教会などとともに、「ポルトの歴史地区」の名称で世界遺産(文化遺産)に登録されています。
また、サンフランシスコ教会はゴシック教会で、修道士たちが、ポルトガル王フェルナンド1世の庇護の元で1383年に、もともとは小さな教会だったものを拡張し、ポルトガルの托鉢修道会のための典型的な、簡素なゴシック様式設計でさらに広い教会を建て始めたことに始まります。
この建設工事は1425年まで続き、教会全体の建設工事は広範囲に変更されず、サン・フランシスコ教会はゴシック建築の良い例となったと言われています。
多彩色の花崗岩でできた聖フランチェスコ像(13世紀)が入り口隣に立っており、これは初期の時代の遺物として有名であります。
また、この日はハリーポッターのロケで使われた本屋にも行きましたが、何と本屋に入るだけで、4ユーロの入場料を取られました。
聞くと、1日に平均約3,000人がこの本屋を訪ねて入場されるそうで、1日に約12,000ユーロの収入がそれだけであるそうです。
一方、ポルト大学の本部事務所やポルト駅も訪問、ポルト駅ではここから、旅立つ列車の風景を見つつ、駅構内の綺麗な青と白の色彩からなるタイルに描かれた絵を見てきました。
今回はまた、ポルトの街中を早朝、ゆっくりと歩きましたが、朝早くから開いているポルトのスーパーは私がかつて住んだ香港、そしてマカオのスーパーと似ており、スーパーに並ぶ商品のせいか、スーパーの匂いも香港やマカオのスーパーに似ていました。
スーパーに並ぶ生活必需品は意外に安く、EUの各国から安くて品質の良いものを選び輸入したものが多く並んでいます。
また、ここにもやはり、中国本土からの雑貨や食品の輸入品が並んでいました。
スーパーの中では買い物客がきちんと並んで買い物をし、小さなポイントカードを出しながら、穏やかな買い物風景を見ましたが、ポルトガル人の温厚な性格を垣間見た気がします。
また、途中、ナポレオンを退散させた戦いを記念するモニュメントも見ましたが、大きなモニュメントのトップは、鷲を踏みつけるライオンがあり、ポルトガルのかつての強さを象徴しているように見受けました。
更にその近くの庶民墓地にふらっと入りましたが、朝早くからたくさんの市民がご先祖参りに来ており、その周辺の綺麗な花を売る花屋さんも活気よく仕事をしていました。
この墓地の中に入れて頂くと、単なる墓碑だけのお墓よりも、むしろ、一つの家のようになっている大きなお墓が多く、墓参のポルト市民に伺うと、一族がその家のようになっているお墓を持ち、亡くなった人が出ると、そこに埋葬するのだと言っていました。
一方、ポルトガルに於いては、
「ポルトで働き、リスボンで遊ぶ」
と言われるようにポルトには職場機会が多いと言われていますがそのポルトでも失業者はいて、早朝のこの散策の最中も、私は二人の人から、
「失業しているからお金を少しでもいいからくれないか?」
と声を掛けられました。
スペイン同様、ポルトガルでもやはり失業問題は底辺ではまだ存在しているようです。
因みに、ポルトの雇用は今、観光や港湾、貿易などの第三次産業によって支えられています。
また、周辺のワイナリーをはじめとする農業関係の出先オフィスがポルトにあり、その仕事に従事する人もいるようです。
銀行の職場機会もポルトの雇用を支えていますが、しかし、最近のポルトガルの銀行は老舗銀行も情実融資などを背景としたスキャンダルで倒産、また、国営銀行を含む現存の主要銀行もポルトガル国債をはじめとするユーロ建て国債の大量保有などを背景にして、資産の不良債権化が顕在化し、不良債権を抱える銀行へと転換していくリスクも噂され、EUの行方がこの国の金融界には少なからぬ影響を与える可能性があることを私たちは認識しておくべきであると思います。
特に、ポルトガルの銀行は、欧州銀行監督機構(EBA)が公表する銀行ストレステスト(健全性審査)の対象から外されており、ポルトガル最大手の国営ポルトガル貯蓄銀行(CGD)の自己資本不足や、経営破綻したバンコ・エスピリト・サント(BES)の優良資産を引き継いだノボ・バンコなどに対する懸念があることを意識しておかなくてはなりません。

その後、我々はポルトガルの中では工業生産の高い、域内に三つの工業団地を持つサン、ジヨアン、ダ、マデイラの伝統産業である帽子産業の跡地を使った博物館を眺めました。
ここには、帽子産業の歴史はありますが、直ぐに斜陽産業となり、多角経営に転じたそうです。
そうした中、その後は高級靴の生産にも従事したそうです。
この地域の帽子はフェルト地の帽子、また、ウサギの毛を使った帽子生産などが特徴的でした。
また、かつてはスペインのデザイナーによる帽子生産もしていたそうです。
会社は、1910年代に設立され、一時期は英国の婦人警官の帽子は、この工場で生産されていました。
そうした実績からブランドバリューを高めましたが、その後、帽子の需要が低迷、原材料のウサギの病気などによる原材料確保の困難などにより、帽子産業の斜陽産業化により、ゴムを使った製品生産も手がけ、ここで、靴工場が拡大していきました。
尚、工場に設置されていた機械を眺めると、イタリアのミラノの企業、フランスのリヨンの企業、ドイツのシーメンス、米国系ユダヤ人企業のシンガーミシンなどから、当時の最新機械を導入し、大量生産大量販売型の工場として、当時から機械化は十分に進んでいたようです。
当時は1日に約2,000個の帽子生産が可能となったそうです。
しかし、当時の競争相手である手縫い職人たちはこの工場の活動に反対をし、デモなども行ったようです。
また、生産工程で使われる水銀の中毒となり、若死にする作業員も多かったそうです。
更に、児童労働者も当時は多く、社会問題化していたそうです。
しかし、その後、この会社の経営陣は社会保障を充実するなどして、こうした問題を解決し、地域経済の発展に貢献しました。
尚、最盛期には約2,000人の雇用を生んだそうです。
しかしその後、1995年に閉鎖、2005年に市がここを博物館とし、今日に至っています。
現在は、この地域の皮革産業などの小規模工場などが、失われた雇用を吸収しているとのことです。

また、Bulhosas社を訪問しました。
同社は1935年に設立したスペイン・ガリシア地方出身のファミリーが起こしたファミリー企業です。
業種としては、当初は帽子につけるラベル、続いて皮革製品につけるラベル生産からはじまり、今は転じてワインのラベル、各種シール等の印刷、プラスチック射出成形製造、マリファナ管理キット、爆発物探知キットの生産、製品ラベルのチェックなどによるコピー製品検知キットなど多角的となっています。
海外拠点もイギリス、フランス、スペイン、イタリア、ドイツ、チェコ、ポーランド、ハンガリー、ユーゴスラビアにパートナー企業、拠点が置かれています。
コピー製品防止のため、アヴエイロ大学との研究開発によるDNAを利用したコピー製品防止シールの生産なども行っているそうです。
また、顧客の注文デザインのデジタルデータ管理をしており、社外にもバックアップデータ管理コンピュータを持っているそうです。
資本金 60万ユーロ
株主100%創業ファミリー
年商 300万ユーロ
国内輸出比率 60%:40%
輸出先 90%フランス
主要製品
ラベル、シール、ハンガーなどのプラスチック製品
営業 技術力を高め運を導けるような営業をしている。
従業員数44人
組合 無し 従業員の定着率は高い
経営課題 プリントだけでなく開発型企業に転じたい。特に安全製品開発。価値の高い会社にしていきたい。
との概要をお聞きしました。
尚、先代社長は、消防署の支援、地元バスケットボールチーム支援など、ボランティア活動にも力を入れていたようです。

尚、これらの二ヶ所は、
「2002年に始まったサンジョアンダマデイラ市の工業ツーリズモ」
の中でセットアップしてもらい、訪問したものであります。

次に、オヴアールの矢崎総業様の工場に伺いました。
矢崎総業ポルトガルは、同社の重要な欧州拠点の一つとなっており、また、トヨタ自動車も大事にしている、矢崎総業屈指の欧州拠点の一つであります。
豊田章一郎さんも訪問されたことがある工場でもあります。
敷地面積は5.5万平方キロメートルとなります。
生産、開発拠点であります。
尚、矢崎総業全体でみると、ドイツが欧州本社となっています。
生産品は、
自動車部品
環境産業
その他(アグリビジネス他)
となっており、ポルトガルは自動車と環境関連ビジネスを行っています。
矢崎総業は全世界で45カ国に展開、476拠点を持っていますが、そのうちの一つとなっています。
1986年にポルトガルに進出しました。
ワイヤハーネス生産などを行い、従業員は最も多い時期には約8,000人を数えたそうですが、現在は2,330人です。
テクニカルセンターには539人を配し、欧州の開発拠点となつている点が一つの大きな特徴です。
また、800人以上は勤続25年以上の従業員となっている点も誇れるポイントとのことであります。
現在は、三シフト・1日24時間の操業を行っています。
銅線などを購入してワイヤハーネスを生産しており、トヨタ、ジャガー、三菱自動車、ボルボ、アウディなどの取引先を有しています。
また、自動車内データ送信のためのコネクション製品も作っています。
自動車だけでなく商用車用の部品も生産しており、モロッコの関連工場との連携も図っています。
最近は、電気自動車用の製品生産も請負始めています。
特殊な例としては、マクラーレンのスポーツカーなどの部品は提案業推の形で納品しています。
矢崎総業の欧州拠点としては古く、欧州の新製品導入に際しては、ポルトガルにて開発、プロトタイプの製品を開発した上で、大量生産大量販売に入っており、ポルトガルには、それを支える熟練工が存在しています。
184億ユーロの年商、ワイヤハーネスが全体の22%で主力、多様化された業務内容を持ち、文字通り、欧州の大拠点として、欧州全体のビジネスをバックアップしています。
尚、矢崎総業全体の欧州ビジネスシェアは16%となつています。
ポルトガル工場では、食堂、医療センターなど、福利厚生も充実されており、こうしたことが、従業員に愛される会社となつている背景の一つであります。
更に、人事教育制度も整い、通勤支援や住宅支援も行われ、従業員に配慮する経営体制がとられています。
また、矢崎総業全体のグローバルテクニカルセンターはメキシコ、フィリピン、そしてこのポルトガルとなつています。
今後はインドにもう一つグローバルテクニカルセンターが開設される予定となっています。
最近は、利益率の高い製品開発に現在は注力しているとのことで、それを意識したワイヤハーネスのデザイン設計やそれに関する課題解決を行っているとのことであります。
テクニカルセンターでは、研究開発の他、社内工作機械製造や工業試験、製品のバーチャルシミュレーション、デザイン技術開発の問題解決なども行っています。
このテクニカルセンターでは、IT技術者の支援も充実しており、ソフト開発にも注力しています。
矢崎総業のポルトガル進出の背景は、インフラの良さ、労働コストに対する労働の質の適正さ、サイト選定の有利さ、そしてこの地を推薦した良きポルトガル人の存在などを総合し決定、その後、ユーロ加盟国となり、EU域内でのビジネスメリットが取れることなどが挙げられるようです。
また、同社の基本姿勢である現地化の促進も円滑に進めやすい地域としてポルトガルが選定されたようです。
現地化の促進をしつつ、矢崎総業本社の基本理念の浸透も進めており、また、資金管理、原材料管理、物流管理などは地域本社であるドイツが一旦管理をした上で、しかし、グローバル全体の管理は静岡・裾野本社が鳥瞰図的視点からの総括管理をしているとのことでありました。
素晴らしい現地経営がなされていることを拝見致しました。

そして、運河と漁業の町アヴエイロの駅の旧舎を視察、だいぶ規模は違いますが、ポルトガルのベニスと言われる運河を眺め、塩田を見た後、ブサコに入りました。
ブサコでは、宮殿の中にあるパレスホテルブサコに泊まりました。
この宮殿は国立公園に指定されている、標高500メートルを超える山にあるブサコの森に佇む宮殿で、有難うのちに暗殺された国王が別邸として造られたものですが、国王は完成を見ずして亡くなり、その後、宮殿は国有資産となり、今は民間企業がホテル運営を請け負っています。
静かな森、庭、そして、落ち着いた宮殿、ちょっと設備は古くなっていますがクラシックホテルとして最高でありました。

こうして、ブサコを発ち、コインブラを訪問、国王ジエニスが設立を命じた、700年以上の歴史を持つ世界遺産のコインブラ大学訪問、図書館を見学しました。
コインブラ大学には、約35,000人の学生を有し、黒マントを着た学生を時々見かけ、それがまた有名です。
現在の図書館はポルトガル国王かつて寄贈した元王宮であります。
また、コインブラ大学は総合大学ではありますが、法学部が特に歴史を持つ有名学部の一つです。
図書館の収蔵図書は約30万冊、文学や哲学などの本が収蔵されています。
多くは写本です。
部屋は6つの部屋からなっています。
今も図書の貸し出しをしています。
尚、日本語の本は無いそうです。
図書館には夜、コウモリが飛ぶそうですが、本の大敵、虫を食べるのがこのコウモリで、むしろ、意図的に図書館のコウモリの侵入を許しているそうです。
また、火災を恐れ、照明も基本的にはなされていません。
更に、図書館に牢屋がありましたが、これは、学生たちが本を盗んだり、破ったりするなどの罪を犯すと、投獄された牢獄であるそうで、長いと一ヶ月投獄されたそうです。
トイレはなし、おまるです。
食べ物は差し入れられたそうです。
コインブラ大学では大学内の教会も見ました。
教会はコインブラ大学関係者のみ利用できるそうです。
また、コインブラ大学の論文発表などがなされる講堂も見学することができました。
尚、コインブラの街には、ロミオとジュリエットの話の原形と言われるペドロとジエニスの話があり、二人のすれ違いを象徴するかのように、中央ですれ違いをする為に膨らんだ部分のある橋を見学しました。

こうしてコインブラを発ち、次にボンバルで携帯塗料では世界的な企業となる日本の根本特殊化学様を訪問しました。
1990年に進出、2,000年に更に資本を入れて工場拡張しています。
24,000平方メートルの敷地を持ちます。
社員は44人、但し、一人は長期病欠しているそうです。
企業として、民間保険を掛けて、国家年金の不足をカバーしているそうです。
750万ユーロの年商です。
黒字を続け、本社に配当しています。
輸出先は香港(塗料)、米国31%、スペイン4%、ラテンアメリカ、日本などとなつており、ポルトガル国内は3%程度です。
紙幣、安全標識、玩具などの塗料生産販売が主となっています。
品質管理などを行う社内ラボもあります。
また、環境にはしっかりと対応しており、水質などには配慮した設備となっています。
ポルトガル政府の環境関連の許可取得には時間が掛かりました。
投資当初はポルトガル政府の進出支援もありましたが、escudo建て支援でescudo安もあり、減価かが激しく増資し、当初の130百万円の資本金が今は300百万円の資本金となっています。
尚、当初は日商岩井、ポルトガル政府も資本参加していたそうです。
アルミナなどの原材料は90%中国本土から調達、中国本土からは前払いで調達しているとのことです。
原材料調達リスクは当社が抱える形で、利益を出していく上で、原材料調達、管理は神経を使っているそうです。
当社の塗料はユーロ紙幣の塗料としても利用されています。
また、かつては100米ドル札の塗料としても利用されていました。
航空機内部の主要塗料の一部にも当社製品は利用されています。
工場見学の後、夏季休暇中にも拘らず、ポルトガル人の幹部社員の方々が来てくださり、イワシやソーセージ、子豚の丸焼きなどをメインとしたバーベキューパーティーをして下さいました。
現地トップの社員の方との会話で感じたことは、プライド高き中に優しさがあり、日本の良さとポルトガルの良さを融合させて仕事をしていく気概といったものが、彼らから強く感じられ、日本人お一人でポルトガルに骨を埋めても良い仰る一人日本人トップの方の現地化に向けたご努力というものを強く感じました。

その後、アルコバサでサンタマリア修道院を訪問しました。
今は記念館として使われ、実際の修道院ではありませんが、ポルトガル国王が愛する人の為に建造したこの建物の各所にはマリア像があり、また、当時、炊事などで使われていた厨房後もしっかりと残っていました。
その修道院の中では美声の男性歌手二人が私たちに心休まるキリスト教の歌を披露してくれ、皆、心温まる思いで、アルコバサを発ちました。

また次に漁師の町・ナザレ市内見学も致しました。
この地はバスコダガマが、航海の無事を祈り、また、帰港後に航海の成功をお礼しに来た地としても有名です。
最近は、30メートルを越える波ができる地としても有名で、世界からサーファーたちが挑戦をしにくる地ともなっています。
尚、ナザレはキリストのナザレから来ている名でもあることは、言うまでもありません。

更に谷間の真珠オビドスを訪問しました。
ここは、かつてポルトガル国王が王妃にプレゼントした城があり、その後は、その城は王妃の財産として継承されていったと聞いています。
ここには、細い小道にたくさんのお店が並び、ワインやその他のお酒、コルクのカバンなどたくさんのものが城壁の中の街中に売られていました。

これらの景勝地を経て、いよいよポルトガルの首都・リスボンに入り、ドンペドロバレスと言う落ち着いたホテルに我々は陣を構えました。
このホテルは米国のクリントン元大統領、ロシアのプーチン大統領、サッカー選手のネイマール選手などが泊まったホテルだそうですが、オペレーションはやや雑に感じました。
そして、夜は、ファドを見ながらの楽しいディナーとなりました。

ご存知のようにリスボンは、ポルトガルの首都で同国最大の都市であります。
市域人口は547,631人、市域面積は84.8平方キロメートルです。
また、リスボンの都市的地域は行政区としての市域を越えて広がっており、人口は300万人を超え、面積は958平方キロメートル、欧州連合域内では11番目に大きな都市です。
リスボンはヨーロッパの大都市では最も西にある都市であると同時に、ヨーロッパの中で最も西側に位置する政府首都、イベリア半島の西側、イベリア半島の大河テージョ川の河畔に位置しています。

リスボンでは、先ず、大使館へ表敬訪問致しました。
東特命全権大使より直接、様々なご説明を戴きました。
鉄砲伝来、天正遣欧少年使節団など、歴史的関係の深いポルトガルと日本の関係から始まり、現在のポルトガルの立ち位置をお教え戴きましたが、
「ポルトガルは日本にとっての新たなゲートウェイとなる。」
との開口一番のコメントが印象的でありました。
一方、
「歴史的関係が深いにも拘らず、日本の現職の総理が訪問していなかった主要な国がポルトガルであり、2014年5月の安倍総理のポルトガル訪問が最初となった。」
と言うコメントも印象的でありました。
しかし、これをきっかけとして、ポルトガル語圏諸国共同体(CPLP=ポルトガルの他、ブラジル、アンゴラ、モザンビーク、東ティモール等9カ国のメンバーを有するもので、イギリスの英国連邦やフランスのドムトムのような組織です。ポルトガルは植民地時代にひどい収奪を行っておらず、加盟国とポルトガルの関係は大変緊密となっています。そうした意味からも、このCPLPを利用した日本企業の海外ビジネス展開のメリットは高いようです。)のオブザーバーとして日本も参加することとなったそうです。
そして、ポルトガルをゲートウェイとして、EU、そしてこのCPLP諸国などにも日本が食い込んでいくと言った構想をより一層具現化していきたいと言うご説明を戴きました。
また、安倍総理のポルトガル訪問を契機に2015年3月には、ポルトガルの親日家・コエーリョ首相がポルトガルの首相としては25年ぶりに来日されました。
また、ポルトガルと日本との関係に関して東大使は、
☆高齢化社会対応を軸とするイノベーション分野
☆再生可能エネルギー、電力取引市場開拓などを含むグリーン・エネルギー分野
☆メタンハイドレートなどの天然資源開発、シーネス港をハブとする海運分野、漁業分野、サーフィン、ビーチバレーなどの海洋レジャーを中心とする海洋分野
☆大震災対策、復興策を含む防災分野
を中心にEU、CPLP諸国約8億人の市場にターゲットを置いたビジネス関係拡大が可能と考えるとの説明をしてくださいました。
また、労働力として安価で質が高く、英語、スペイン語をはじめとする外国語が話せる人材が人口の約6割を占めると言うポルトガルは注目されるとのコメントもありました。
その質が高く安価で言語力の高いポルトガルを意識した投資をした日系企業として、ブラガに進出した富士通があるとの紹介もあり、また、これはポルトガルに多くの雇用を創出したということで、ポルトガル政府にも感謝されているとのことでありました。
また、ポルトガルワイン輸入、医薬品、コルクの製造販売、太陽光発電設備の設置、工業炉の新築補修などの日系企業が活躍され、商社の中ではガス、電力等のインフラ関連ビジネスを拡大している丸紅のプレゼンスが相対的には高くなっているようです。
また、カゴメは約300の農家にトマトの生産を委託、ポルトガル国内の二工場でケチャップなどを生産、日本向け輸出や最近はポルトガル国内のマクドナルド向け販売もしているそうです。更にカゴメは研究所も開設、更に今後は農業分野でのIT化推進もしていく予定となっているそうです。
また、漁業関連ビジネスをしているTunipex、ホンダ系自動車空調機を製造するTESCOや三菱系の三菱ふそう、更にYKKなど日系企業77社がポルトガルでビジネス展開をしています。
こうしたお話をお聞きし、大使館を後にしました。

続いて、ポルトガル版ジェトロである、ポルトガル政府機関・AICEPを訪問しました。
ここでは主として、ポルトガル人の見る日本観や世界観をお聞きし、勉強しました。
休暇中にわざわざ来て下さったシルバExecutive Director他からの説明を戴きました。
この組織は、例えばスウェーデンのスウェーデン輸出公社=SEKのような貿易、投資促進公社であり、基本的には、ポルトガル企業の輸出を中心とする海外展開をサポートしている組織です。
先ずは、ポルトガル経済が好転しつつあるとの前提の下、日本への輸出はもとより、日本からの輸入、日本企業の対ポルトガル投資を拡大したいとのコメントがありました。
一方、ポルトガルに関するイメージがズレている、例えばアグリビジネスなど、最先端ビジネスが拡大してきているのが、今のポルトガルであり、良くポルトガルを見てもらいたいとのコメントもありました。
尚、AICEPは東京にも事務所を持ち、こうした仕事を展開しているそうです。
ポルトガルは大西洋を挟みとして、アメリカ大陸と欧州の軸となっています。
シーメンス、ベスタス、ボーダフォン、富士通などの有力企業が進出しています。
ポルトガル経済は、2016年は1.4%成長、この三ヶ月は2.8%成長しており、輸出も5%を越える成長をしており、これらが外国人投資増加を支える背景となっています。
更に、ポルトガルのイノベーション力と技術水準の高さがこうした背景にあると認識しているとのコメントがありました。
現在は日本からの輸入超となっていますが、今後はバランスが取れるように改善していきたいと考えているそうです。
また、最近の富士通の投資のような投資促進を図りたいとのコメントもありました。
更にカゴメのように研究開発拠点を拡大するような日本企業、インフラ関連ビジネスを展開する丸紅のような日本企業の投資誘致を図りたいとのコメントもありました。
注目すべき分野としては、技術開発、技術サポートセンターとしてのポルトガルなども挙げられます。
そしてこれらを背景にして、例えば、
自動車、同関連分野としては、
トヨタ、フォルクスワーゲン、三菱ふそう、
矢崎総業、ボッシュ
などが進出しています。
宇宙航空分野も注目され、航空機内部の装備などの分野も拡大しています。
農業分野、食品関係分野も注目され、ネスレ、クラフトやカゴメなどが注目されまた、ポルトガルは意外にビール産業も強いようです。
また、健康、医療器具、ライフサイエンス分野も注目されており、研究開発が進んでいます。
外資にとってのポルトガルのビジネスパートナーとしての魅力は、

  1. EUはもとよりポルトガル語圏でのビジネス展開におけるサポート力
  2. 競争関係ではなく、協調関係にある日本とポルトガルの経済関係
  3. EU日本投資貿易協定の締結によるメリット拡大
  4. 技術者の量と質、語学力を背景とした人材の豊富さ、大学研究所の充実
  5. 交通インフラ、電力、情報等のインフラ充実
  6. 各種コストの低コスト化
  7. ポルトガル政府、EU政府のインセンティブ、補助金、税制減免の充実
  8. 生活環境の良さ
  9. AICFPは、投資手続き支援、投資家発掘などのサポート

などが挙げられるとの説明がありました。
尚、一般的には、ポルトガルは各種手続きが煩雑な国です。
一方、外国企業、就中、日本企業の買収行動に対しては、悪感情はないとのこと。そして、ポルトガル発展に資する外国人投資であれば投資国、投資企業に拘らず、歓迎とのコメントが一応ありました。
そして、異なった文化との融和を求める姿勢がポルトガルの国力増強にも繋がり、例えば、デザイン分野での魅力も高いです。
こうして、次の訪問先に移動しました。

その後、アゼイタオンに向かい、タイル生産をするSao Simao社を訪問しました。
同社は、34年の歴史を持ち、昔ながらのポルトガルタイル生産を守るために設立された会社です。
全て、手作りでタイルを生産しているところはデルフトの一部などわずかとなっているそうです。
ここでは、専門のデザイナーを育成もしています。
年間約30,000枚のタイル生産をしています。
粘土はかつてはリスボン周辺から、今はポルト周辺で生産された粘土が調達されています。
またかつてはこうしたタイル製品をアジアに輸出していました。
今も60%は輸出、その他はリスボンとEU向け販売です。
現在は、ここは少量変量多品種高品質高利型のビジネスとなっています。

次に、コルク樫の植林された林を見た後、リスボンに戻りました。
因みに、世界のコルク製品の50%強はポルトガルが占めています。
また、このコルク樫の実を食べさせて育てた豚が最高級イベリコ豚となり、実は最高品質のイベリコ豚は、スペイン産ではなくポルトガル産となっています。
こうして各所を回り、リスボンに戻り、ベレン地区の、世界遺産でもある、またバスコダガマの航海を記して建てられたジェロニモ修道院、リスボンを守るために、出港、帰港する船を見送り、出迎えるために建設されたベレンの塔、バスコダガマ、マゼラン、ザビエルと言った日本でも有名な歴史的人物が彫刻されている巨大モニュメントである発見の塔などを視察した後、夜は日系企業や関係機関の方々との晩餐交流会を致しました。
ポルトガル現在については、建設の仕事が国内に戻ったこととISのテロ活動拡大に伴い安価で質の良い観光地として栄えた各地の観光地からテロの少ないポルトガルに欧州の観光客が入りこんで起こっている観光産業の拡大がポルトガル経済の改善に寄与しているとの説明がありました。
また、不動産を投資ファンドが買い開発して高く売却、あるいは賃貸するといった様子もあり、一部にバブル現象も見られるとの見方も伺いました。

そして、ポルトガル調査の最終日は、先ずリスボン大学附属国立芸術大学を訪問しました。
ここは、180年の歴史を持つ芸術大学で、川を見下ろす高台の旧市街の中にあります。
13世紀の修道院を使い大学として今は使っています。
この芸術大学には、絵画や彫刻、グラフィックデザイン、工業デザインなど8つのコースがあり、マスターコースも含めて約1,500人の学生がここで学んでいます。
また、教員は約150人とのこと。
工業デザイン部門では、下級生から、実習が多く、木、コルク、プラスチックなどの材料で作品を作り、マスターコースとなると、ポルトガル系、外資系企業との共同研究プロジェクトなどを実践として行っているそうです。
もちろん制作や設計のための機械、CAD、3Dプリンターなども充実しています。
そして、単品試作、量産試作などを企業連携で行い、成果を上げているそうです。
卒業生は自立する芸術家、大企業社員、教師などとなっています。
産学連携の一つの様子を拝見しました。

水族館を訪問しました。
この地は、かつてはコンビナートなどがあり、雑然とした地域であったそうですが再開発をし、この水族館などが出来ています。
欧州最大の水族館だそうです。
また、淡水魚館は日本の天野氏が手掛けられた水族館で、天野氏はこの水族館の完成直後に他界され、遺作となった水族館だそうです。
淡水魚水槽としては、世界最大の水槽がここにはあります。
静かな音楽が流れる中、優雅に泳ぐ淡水魚たちを見て、心洗われる思いがしました。
また、海洋博物館も多彩な構成で飽きない水族館となつていました。

その次に、天正遣欧使節が滞在したサンロケ教会で祈りを捧げた後、我々はユーラシア大陸最西端に位置するロカ岬を訪問し、大航海時代に想いを馳せました。
ここでは、ユーラシア大陸最西端訪問証明書を発行して戴きました。
また、シントラ市を訪問、宮殿と市内などを見学して、リスボンに戻りました。

帰路はまた、ドバイ経由関空から羽田に戻り、無事に帰宅した次第です。

今回は最終日に私は生まれて初めてスリに会いました。
これまで、国内の混雑した地域はもとより、スリが多いと言われた海外でもスリにあったことがなかったのですが、油断しました。現地ガイドさんに聞くと、外国人観光客が増えた最近、中欧東欧系窃盗団組織などがポルトガルにも入り、現地ガイドさんもお客様に気を取られている隙にスリに会うことが多いようです。
ちょっと悔しい経験となりました。

以上が真田幸光のポルトガル紀行でありました。

 引き続き宜しくお願い申し上げます。

以上
 
愛知淑徳大学 ビジネス学部・ビジネス研究科
教授 真田 幸光
 


真田先生のプロフィール
真田 幸光氏(さなだ・ゆきみつ)
愛知淑徳大学ビジネス学部教授。
1957(昭和32)年生まれ。81年慶大法卒、東京銀行(現・東京三菱UFJ銀行)入行。韓国延世大学留学、ソウル支店、資本市場第 一部、BOT International(H.K.)Ltd.出向などを経て、97年独系ドレスナー銀行東京支店・企業融資部長。98年愛知淑徳大学ビジ ネス・コミュニケーション研究所助教授に就任。2002年4月同 教授、2004年4月より現職。
著書は『日本の国際化と韓国』、『アジアの国、日本』など多 数。 NHKクローズ・アップ現代などテレビ、ラジオ出演をはじめ、中小企業大学校ほか活発な講演活動を展開中。
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